ダメージは十分に蓄積したと踏んだのだろう。2ラウンド冒頭から、礁は夏月を倒しに動き出す。
夏月のジャブを掻い潜っての右ボディ。前ラウンドよりも半歩深く踏み込んで打たれたそれは、夏月に強烈な吐き気をもたらした。
「ぐっ・・・ふ・・・っ」
これまでで最も重い一撃ではあったが、夏月は辛うじて踏み止まることができた。
(ヤマを張ってても・・・キツイな・・・)
夏月も伊達に半年、礁を追い掛けて来た訳ではない。彼女を知りボクシングを知り、礁の攻め時というものを夏月は感じ取っていたのだ。力を込めた攻撃にはどうしても隙が生まれる。
「ここだ!!」
夏月は漸く、礁の横顔に狙いを定めることができた。左拳を握り締めて、涼しい顔を殴り飛ばそうとする。が、そのグローブが当たる直前、夏月の視界から礁の体が流れるように右へと消えた。
(ッ!?)
パンチを打ち終わった夏月の無防備なアゴを、礁の右アッパーが突き上げる。予想外の一撃を受けた夏月は、吹き飛ばされるように倒れると地面に大の字となった。
夏月は礁のフェイントに乗せられた格好となったのだ。
「夏月!!」
「夏月ちゃん!!」
セコンドから悲鳴が上がるが、夏月のダウンで巻き起こった歓声がそれを掻き消す。
「ごぽ・・・ゲホッ」
夏月は倒れたまま頭を横向け、マウスピースを吐き出し、少し息を吸った。
「ふんぬっ!!」
気合いと共に上体を起こし一気に立ち上がろうとするが、彼女の足は別の生き物のようにカクカク震えるばかりで、すぐに尻餅をついてしまう。
「クソ・・・!」
思わず悪態を吐いて、夏月は自分を殴り倒した相手を睨みつけると、彼女もまた夏月を見ていた。
礁は冷やかに夏月を見据えたまま、彼女のすぐ脇をグローブで指し示した。そこには夏月の吐き出したマウスピースが転がっている。
(まだ足りないってことか? やっぱコイツ・・・)
夏月はマウスピースを拾ってはめ直す。少し埃の味がした。そして、
「桜井―――!!」
気合いと共にダンッと地面を踏み締め、立ちあがる。カウント8、ギリギリであった。
「やれるか?」
「あたりめーだ!!」
レフェリーのチェックに強気で返す夏月だが、その足は未だ震えが治まっておらず、誰の目にも強がりにしか映らなかった。しかし会場はその姿にヒートアップし、来堂コールが巻き起こる。夏月は歓声に後押しされるように一歩、また一歩と引き摺るように足を進めた。
(裏をかくとか、通じるはずなかった。基本通り、まっすぐ、ストレート、一発・・・)
ぶつぶつと呟きながら接近する夏月を迎え撃つべく、礁もまたじりじりと歩を進める。距離が狭まるにつれ、歓声も二人の耳には届かなくなっていった。
やがて互いの射程に入り――二人の拳が交差する。
礁は驚愕した。飛んできたのは、まるで別人が放ったかのような右ストレートだったからだ。こちらの攻撃に合わせたかのようなそれは恐るべき勢いで、ガードすら許さずに礁の顔面へと突き刺さる。
夏月はまた別の意味で驚いていた。
(これが・・・頭がどっかに吹っ飛ばされるってやつか・・・)
期せずしてカウンターとなったが、試合を終わらせるつもりで放たれた礁の右ストレートは、まさに最高のタイミングで夏月のアゴを打ち抜いていた。
夏月は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、礁は踏み止まった。夏月の足にダメージがなかったら、恐らく耐えられはしなかっただろう。
ダウンのカウントが3まで進んだ後、レフェリーがしゃがみ込んで夏月の顔をグッと覗き込む。
彼女は気を失っていた。腫れあがった顔に、うっすらと笑みを浮かべながら。
「正直驚いたわ。礁があんなパフォーマンスするなんて」
礁のバンテージを解きながら、碧は淡々と不満を口にした。
「あのままにしてたら、彼女立てなかったと思うんだけど」
碧の指摘に礁は笑顔を見せて答える。充足した笑顔だった。
「私はこの大会が最後のつもりだったから・・・。お互いに納得いくまでやって後腐れ無く、ね」
「ふーん・・・ま、この大会に出たのもあの子の為だったし。でも・・・代償は大きかったわね」
碧はバンテージを外し終えると礁の顔、主に左目をまじまじと観察しだした。
「やっぱり痣が浮いてきてる。残るわよコレ」
「ああ、いいのよもう。親にも話す気だから」
「それってビート・・・ボクシング続けるってこと?」
「うん」
碧は口に手を当てて、クスクスと可笑しそうに笑った。
「あの子とも長い付き合いになるかもね、礁」
礁もまた、セコンドに背負われて行った夏月を笑顔を思い起こして笑った。目が覚めたらどれだけ悔しがるかなと、過去の自分と重ね合わせて。