「・・・酷い顔ね」
桜井礁の言葉通り、来堂夏月の顔は酷い有様だった。装着したヘッドギアと絆創膏でも隠しきれない傷と痣が、夏月の顔を覆っていたからだ。
それは、夏月が礁に辿り着くまでの苦闘が刻み込まれているかのようだった。
対して、礁の顔は全く綺麗なままだった。予選とはいえ、3つの試合を経て顔への被弾が0というのは流石としか言いようがない。
だが夏月は不敵な笑みを浮かべ、右のグローブを礁へと突き付けた。
「あんたは奇麗で良かったよ。あたしが殴ったところが一目でわかる」
「フフッ、それは嫌だな。困る」
礁は夏月のグローブに軽くタッチすると、碧の待つコーナーへと歩いて行った。
(あなたもう、私と同じところに立ってるから)
以前の礁の言葉が、現実感を持って急速に夏月を満たしていく。
しかし、彼女の目標はここではない。もうすぐ鳴らされるゴングの、その先にあるのだ。
「オイ。お前もさっさと戻って来い」
自陣のパイプ椅子の脇から哲平が呼ぶ。その傍では深奈が熱っぽく、陸は相変わらずニヤけた顔で夏月を見守っていた。
「「うるせーぞオッサン。今行く」
夏月が音を立てて椅子に座ると、いきなり哲平から口にマウスピースを突っ込まれた。
「んがっ」
「とりあえずここまでは来た。正直勝てるかは解らん。実力には差があるし、お前は練習サボってたしな」
「おい・・・セコンドがんなコトゆーな」
「いいからしっかりガード上げて、まずは一発当てて来い。ゴングはすぐだぞ」
「おう」
夏月は胸の前で力強く、グローブを打ち合わせた。
オープニングヒットは、やはり礁のものだった。
「おっしゃあ!!」
気合いと共に突っ込む夏月を、読んでいたと言わんばかりのワンツーがまともに貫く。
「ぶっは」
ただのワンツーではあったが、それは夏月が今大会で受けたどんなパンチよりも速く、重く、彼女の前進はピタリと止まってしまった。
「だからガード上げろってんだろ!」
セコンドの哲平が声を張り上げるが、礁は既に次のモーションに移っていた。
ドッ!!
夏月の腹部に深々と右拳が突き刺さる。彼女の体は「く」の字に折れ、口からは吐き出しそうになったマウスピースが口を出した。
この苦しみを夏月は覚えていた。脳裏に浮かんだのは、あの地下駐車場。右ボディー一発で地面に額を擦りつけた自分の姿。
(倒れ・・・ねぇっ・・・!!)
夏月は歯を食いしばり全身に力を込め直し、がむしゃらに右腕を振り回した。
「っ!?」
虚を突かれた礁は慌ててガードで防ぐが、予想外の反撃に一時後退を余儀なくされる。
(ホント・・・驚いた。半年前とは別人だわ)
辛うじて体制を立て直した夏月だが、警戒心を露にした礁について行く事は並大抵ではなかった。
基本通りにジャブから攻めようとするのだが、そのジャブからして当たってはくれない。ステップワークに翻弄され、まるで的が絞れないのだ。
気が急いてガードの下がる夏月に、礁の拳は容赦がなかった。お手本のようなジャブ二発から右フックが綺麗に決まる。
「くっ・・・!!」
夏月も強気に左フックを返すものの、礁はそれを掻い潜ってボディーへ一発。すぐさま離脱する。
夏月は既に、八方塞がりに陥っていた。
「・・・よく帰ってきた、ってところだな」
哲平はそう言いながら、椅子に座る夏月の顔をタオルで荒々しく拭った。息も絶え絶えで、左目も腫れて塞がりかけている。深奈が慌てて氷のうを当ててやった。
「うっせ・・・まだアイツに・・・一発も返してないんだよ・・・」
「そんだけ言えりゃ十分だな。正直棄権させようかと思ってたんだが・・・」
「オイ」
「アイツ、今年で引退するんだと。その・・・なんだ、悔いが残るってのはキツいもんだからな」
夏月は横目で哲平を見た。遠くを見るような目でマウスピースを洗っている。
(コイツは・・・相手がいなくなったんじゃなくて、自分ができなくなったんだよな・・・)
練習を積んできた分、相手との差がより認識できる。夏月は弱気になりかけていた。しかし、
「・・・諦めるかよ」
夏月は、腹を決めた。