高校の昼休み。弁当を広げていると、亜紀が机を寄せてきた。
「由井。明日、晴れだってさ」
アスパラのベーコン巻きを口に放り込んで、私は首を傾げた。
「アンタ、次晴れたら海に行こうって言ってたでしょう」
「だって明日は水曜でしょ?なんかの祭日だっけ」
弁当箱から目を離さずに応える。
「学校さぼりゃいいじゃない」
私はようやく亜紀を見て体を乗り出した。
「マジ?」
亜紀は平然と弁当を食べ始めている。
「鬱陶しい梅雨のようやくの晴れ間じゃない。休日待ってたら七月になっちゃうよ」
「そりゃ言いだしっぺは私だけどさ・・・」
最寄の海岸は夏になると、かなりの混雑を見せる。猫の額ほどの海岸なのだが、都市のベッドタウン化してきたこの
街では、数少ない娯楽として重宝されている。
去年亜紀と夏休みに泳ぎに行ったときは散々だった。
「ガキがうるさい!こんな狭いとこにシート広げるな!人多すぎて海が温くなってるよ!」
亜紀の意見にも同意したが、私はさらに人ごみも嫌いだった。むせ返るような人いきれの中で、のぼせて座り込んでしまったりした。
「もーやだ!海行くなら誰もいない時がいい!」
帰り道にそうわめくと、亜紀がうんざりしたように相槌を打った。
「そうね〜。来年は・・・もっと早く来ようか」
そして今年。六月に入った頃から私たちはずっと機会を窺っていたのだ。
過去の惨事が脳裏をよぎり、私の心は奮い立った。
「よし、行こう。私たちが一番乗りよ」
2
朝八時。駅で落ち合った亜紀は制服に傘を携え、苦笑を浮かべていた。
「・・・空、どよどよだね」
今にも雨が降り出しそうな空を苦々しく眺める。
「ま、いいや!行こう亜紀!」
亜紀の肩をバンと叩き、ホームへと歩き出す。ちょうど列車の音が聞こえてくるところだった。
都市とは反対方向へ向かうローカル線。そのためか、乗客の姿はまばらだ。十人にも満たないだろう。
「ねえ由井。海、遠いよね」
向かいの座席に座った亜紀が、風景を見ながらポツリと言った。
「・・・? 二駅で着くでしょ?」
「それからさらに歩いて五分。・・・ね。遠いよ」
「うん・・・遠い」
亜紀の言葉は私に、妙な説得力を持って響いてくる。他の友人ならさらりと聞き流すか、「何言ってんの?」そんなリアクションをとる所だ。
だけど遠い目をした時の亜紀の台詞に、私は弱い。共感できる。だから私たちは親友になれたのだなと、そのつど考えている。
「あ・・・降ってきちゃった」
雨粒が窓に無数の線を描きはじめた。
「構わないよ。どうせ泳ぐんだ」
雲はさらに厚く、日の光を完全に遮っていた。
3
更衣室で水着に着替え、雨の砂浜に裸足の足を着ける。濡れた砂浜は新鮮な感覚だ。亜紀と並んでザクザクと、誰もいない砂浜へ向かう。
「うわっ、と」
波が足をさらい、亜紀が声を上げた。
「さすがに冷たいね〜」
言いながらもずんずん進み、腰まで海に浸かって行く。
私も進む。声にならないか細い悲鳴をあげながら。水面が胸まで来たところで水中眼鏡を装着し、ゆっくりと顔を沈めた。
(・・・ぬるい・・・)
冷たい海水に体がなじんでいく。横から亜紀の声が聞こえた。
「お〜い。どーだ〜」
亜紀は雨に目を細めながら、仰向けに浮かんでこっちを横目で見ていた。「おう」
それだけ応えると、私はクロールで沖へと向かう。波は思ったよりも穏やかで、滑るように進んだ。
(驚き。なんだか海に引きずられているみたいだ)
振り返ると既に亜紀が小さく見える。ここまで来れば十分だろう。大きく息を吸い、底へ向かって潜り始めた。
4
海中で辺りを見回す。
(うわ・・・何にも見えない)
さらに深く潜り、海面を見上げてみた。光が鈍く、弱い。
(もう少し・・・)
より深く潜り底を目指す。が、潜るにつれて光は圧倒的に弱まり、底は以前として闇に包まれたままだ。
私はそこまで沖に出てしまったのだろうか。辺りには何もない。薄暗い海がどこまでも続く。
(・・・怖いな・・・)
背筋がぞくりと震える。得体の知れない恐怖とはこういうものなのだろうか。足をばたつかせ、急いで海面を目指した。
水面から顔を出して大きく息を吐く。水中眼鏡を外して顔を拭った。
「由井?」
亜紀が近くまで来て、心なしか心配そうな様子で私を呼んだ。そして空を見上げる。雨が強さを増し、遠くで雷の音が聴こえた。
「亜紀・・・もう帰ろうか」
二人ならんで浜へと泳いだ。私の沈んだ表情をちらちら見ながらも、亜紀は何も言わなかった。
5
シャワーの水は、冷えた体にも冷たかった。亜紀はか細い悲鳴をあげながら髪を洗っていた。
私は軽い疲れを感じて、シャワーを浴びたまま壁に手を突いてうなだれる。
「どうした〜?」
いきなり亜紀が後ろから抱き付いてきた。
「おお、暖かい暖かい」
ひとしきりはしゃいだ後、私はシャワーを止めた。亜紀が声のトーンを低くし、優しく聞いた。
「で、どうだったのさ。六月の海は」
私は背中の亜紀に両手を回す。
「寂しいっていうか・・・怖かった」
「ふむ・・・」
亜紀はくるりと体を反すと、私の手を取り更衣室へ歩き出した。「いいさ。また来よう、二人で」
そう言って振り返った。
「曇ってたって雨だってさ。私が近くにいてやるよ」
ああ、そうか。私は笑う。
「亜紀、あんた大きくなったねえ」
亜紀がにんまり笑った。
「どこが? 具体的に言ってみ?」
私はおかしくなって、タオルで亜紀の頭をくしゃくしゃにしてやった。