「大丈夫? 気圧されてない?」

 先輩はそう言いながら、装着済みのヘッドギアをぽんぽん叩いた。

 初の他校との練習試合直前で、ガチガチに固まっている私を気遣ってか、先輩は笑みを絶やさない。

「は、はい。多分、向こうも私と同じで・・・さっきリング中央で見た時も目が泳いでいました」

「あらあら」

 私の相手は増子千菜といった。見た所身長は150cm程だろうか。体格や腕の長さを含め、私との差異を探す方が難しい子だった。

「これは先に当てた者勝ちね。先制してペースを掴んで」

 指示を受けた直後、ゴングが鳴った。

(先制してペースを・・・)

 アドバイスで頭が一杯の私は脇目も振らずに駈け出した。とにかく一発、面喰わしてやるのだ。

 そう意気込んでいたら、相手も同じ考えだったらしい。

 増子さんも突っ込んで来ていて、そのままリング中央で右のストレートが交錯した。

 バズンと鈍い二つの音が同時に響いた後、私達は揃って尻餅をついたまま、キョトンとした顔を見合せていた。

 途端にリング外から笑い声が沸き起こり、私達は慌てて立ち上がった。

(ああもう・・・)

 恥ずかしさと顔の痛みに耐えつつ、レフェリーに見せる為にファイティングポーズを取った。

 そのまま増子さんの顔を窺うと、やはり真っ赤になっていた。

 試合が再開されると、再び増子さんが突っ込んできた。

 恥ずかしさに体が縮こまっていた私とは対照的に、彼女は打って出ることでヤジを吹き飛ばそうとしたのだろう。

 パパンッ

 対応が遅れた私にきれいなワンツーが突き刺さった。

「くうっ」

 鼻の痛みに涙がこぼれそうになったが、何とか目を見開き、追撃を狙う増子さんの横っ面を殴りつけてやった。が、手ごたえは軽い。こちらの体制が不十分だったのだろう。

 彼女は止まることなく、数発のパンチを打ってきたが、反撃の機会もなくガードに徹するしかなかった。

「美園ちゃーん。くっつけー」

 珍しく焦り気味の先輩の声に、思わず体が反応した。飛んでくる右ストレートに合わせて身を屈め、一息に増子さんの胴へと飛びついた。

 右腕を背中まで回してクリンチを維持しつつ、左腕で何度もボディを叩く。

「ふぐぅ」

 増子さんの背が少し丸くなった。このままレフェリーに止められるまで叩き続けてやろうと左腕に力を込めると、

 ズドッ

 自分のお腹にもきつい一発が返ってきた。

「ぶむっ」

 飛び出そうになるマウスピースを噛み締めつつ、止まりかけた左腕を無理やり動かした。

 ズムッ ズムッ ズムッ

 打って打ち返される度、お互いの呼吸が乱れていく。汗が飛び散り、滴る唾液が試合着を濡らした。相手の消耗を励みに打ち続けるしかなかった。

「ブレイク!」

 声と同時にゴングが鳴り、ようやくレフェリーが割って入った時には二人とも大きく肩で息をしていた。

 足を引き摺るようにしてコーナーへ戻ると、先輩は呆れ顔だった。

「たった二分でこうも疲れて帰ってくるなんてねえ・・・足を揉んであげるから早く座って」

「ス、スミマセン」

 先輩は手早くマウスピースの洗浄、うがいの処置を終えると、足のマッサージを始めてくれた。

「ふふっ。あちらも大変みたいね」

 対角のコーナーに目を移すと、脱力しきった増子さんの足を、セコンドが慣れた手つきでマッサージしている。

「状況は五分ね。足が利かない以上接近戦になるだろうけど・・・やれそう?」

 私は首を縦に振った。不断から先輩とのスパーでこなしてきた距離だ。多少の自信はある。

「よしっ。残り二分、挫けないでね」

 

 最終ラウンドが始まった。

 早速増子さんが襲いかかってきた。試合開始当初とは段違いにギラギラした目つきをしている。

 ダンッ

 接近戦は気迫で勝負だ。私は音を立ててリングを踏み締め、彼女を迎え撃つ。

 ヂッ

 間一髪、上半身を捻って左ストレートを回避する。ヘッドギアとグローブが掠れて乾いた音がした。

 ガードが戻らないうちに、お返しとばかりに左ストレートを打ち込む。

「ぶはっ」

 拳半分だが、何とか当たった。僅かにだが体勢が崩れた隙に一気に間を詰める。ラッシュの開始だ。

 バシッ ドスッ

 所構わず、がむしゃらにパンチを繰り出していく。半端なガードはボディーを打つと力を無くし、右、左と顔を殴りつけた。

 歓声と悲鳴が巻き起こり、リングを包む。スパーでは得られなかった経験を一度に体感し、私はすっかり舞い上がっていた。

(もう一発!)

 止めとばかりに右腕を振りかぶると、

 ガスッ

 唐突に、体全体に電気が走るような衝撃を覚えた。

 増子さんの放った苦し紛れのパンチが、きれいに顎を捉えていたのだ。

 たった一発で脳が揺らされ、体が痺れてしまっていた。手は下がり、だらしなく開いた口から唾液とマウスピースがこぼれ落ちた。

「あ・・・」

 それから増子さんは私に倒れ込むようにして、全体重をかけた右拳を真正面から私の顔面に叩きつけた。

 グシャ

 

(鼻が痛い・・・)

 そう思って手をやると、鼻の穴にはティッシュが詰め込まれていた。

 ゆっくりと状態を起こすと、そこはリングではなかった。長椅子に仰向けに寝かされていたようで、すぐ隣には先輩が腰掛けていた。

「・・・惜しかったね」

 呆然としたまま室内を見回すと、一角に人だかりができていた。

 晴れやかな笑顔を見せる増子さんを、仲間達がもみくちゃにしている。

 ふと涙がこぼれた。椅子の上でうずくまり、

「うー」

 と言った。

 先輩が頭を、優しく撫でてくれている。

「うー・・・うー・・・」

 私の口からはそれ以外、言葉が出てこなかった。

 

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