相手は同じ17歳だとジムの会長に聞かされた。今回がデビュー戦のようで、一枚のプロフィールだけが情報の全てだ。

「つぐみの方が先輩ってわけだ」

 会長はそう言って楽しそうに笑った。

「一戦だけですけど」

 私は苦笑して手渡された用紙に目をやる。

(名取すずめ・・・)

 写真を見ると、やや童顔の少女が写っていた。気負いすぎているのか、大きな瞳をさらに見開き、口を真一文字に結んでいる。軽く眉にかかる程度のショートヘアーが、妙に幼さを感じさせた。

「さ、新人の明暗を分けるのは練習量の差だ。トレーニング再開」

 パンパンと手拍子で追い立てられる。私は用紙を机の上に置き、代わりにグローブを手に持った。私のデビュー戦の相手は随分と恐持てだった。気後れしてうまく手が出ず、判定負け。グローブをはめてサンドバッグを睨むと、何故かすずめの顔が浮かび上がった。

「会長。すずめさんから見ると、私はどんな顔に見えるんでしょうね」

「そりゃ決まってる。表情のない無気力ボクサーだ」

「・・・無気力ならこんな事やってません」

 拳を握り、すずめの顔目掛けて右ストレートを放つ。重い手応えと共に彼女の顔が掻き消えた。

 

 実際に試合前、リングの中央ですずめと対面した時、彼女は石のように硬く緊張していた。キュッと口を結び、体全身を震わせながら私を見つめてくる。セコンドから睨むように指示でもされたのだろう。しかし、その瞳には決定的に凄みが不足していた。

 コーナーへ戻ると、セコンドが渋い顔をしていた。

「あんまりホッとするなよ。眼力は元より、キャリアにも殆ど差はないんだ」

 表情に出ていたのだろうか。私は心を見透かされたようでドキリとした。

「4ラウンドしかないから最初から攻めていけ。前みたいに消極的にはなるなよ」

「はい」

 カーン

 私の返事に被さるようにゴングが鳴った。

(言えないよね、前回は相手の顔が恐かったなんて)

 すずめを観察したせいか、妙にリラックスできているようだ。リング中央で互いのグローブを合わせ、同時に距離を取る。すずめからは攻めて来ない。ガード越しに様子を窺っている。

(・・・口火を切るのも先輩の役目か)

 セコンドからの指示もある。私はステップインして、すずめのガード目掛けて左ジャブを二発打ち付ける。

 パンッ パンッ

 小気味いい音が響くがガードはびくともしない。腕を畳んでガチガチに固めているようだ。私は素直に目標を変え、右ストレートをがら空きのボディーに叩き込んだ。

「うぐっ」

 すずめの呻き声がかすかに聞こえた。やはり上下の打ち分けには対応できないようだ。二発、三発と叩くうちに、少しずつ彼女は後退していく。それでもガードを下ろさないのは大したものだ。さらに追撃しようと足を踏み出すと、

「打ち返せ!」

 すずめのセコンドの声が上がり、間髪入れずに右のパンチが飛んできた。

「っ!!」

 私は強引に上半身を右へ捻り、間一髪で身をかわす。声を聞き逃していたら間違いなくもらっていただろう。すずめの体は空を切った右腕に流され、ガードが崩れた。

(チャンスチャンスチャンス!)

 私は無理やり体を起こすと左腕を振り回した。

 ボグッ

 鈍い衝撃が左腕を伝わってくる。すずめは大きくたたらを踏み、ロープにもたれてようやく止まった。彼女に追撃を仕掛けようとしたその時。

 すずめと目が合った。

 苦痛に歪み涙の浮いた、怯えるような目だ。一瞬、場違いな罪悪感に私は捕らわれてしまった。僅かに静止していた時間は外野の声によって動き出した。

「つぐみっ!ラッシュラッシュ!!」

「下手に逃げるな!打って出ろ!!」

 散々聞かされてきた声に、私たちはすぐさま反応する。右のストレートがほぼ同時に当たった。体勢を立て直すのは少しだけ、私の方が早かった。今度は左フックですずめの右頬を殴り飛ばす。彼女の顔が大きく歪んだ。

 ぞわり。

 また、罪悪感が首をもたげる。私はそれに反発した。思考を閉じて、両の拳を交互に突き出す。それに返って来るすずめのパンチの痛みもまた、私の反発を後押ししてくれた。

 ズドッ

 右ストレートが最後だった。すずめのアゴを抉り、汗がパァッと舞った。腰がストンと落ち、彼女はリングに座り込んだ。

 試合中に初めて聴いたカウントはやけに遅く、私はハラハラし通しだった。すずめはロープを掴み懸命に立ち上がろうとするが、それは適うことなく、試合終了のゴングが打ち鳴らされた。私は何よりも、すずめをこれ以上殴らずに済む事に安堵した。

 

 控え室では最初は褒められたものの、結局最後は説教を受けた。何故ラッシュのタイミング直前に動きを止めたのか、どうにも納得いかないらしい。私はそそくさと荷物を纏めると、挨拶もそこそこに部屋を出た。初勝利の喜びも、すっかりと失せてしまっていた。

「わからないのは私の方だっての」

 会場の出口までの通路を、愚痴りながら足早に歩く。

「春沢・・・さん」

 後ろから控えめな声で名を呼ばれた。振り向くと、右頬に大きなガーゼを貼ったすずめが立っていた。

「少し・・・お話できませんか?」

 私の心がまた、ざわめき始めた。

 

 

 

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