鼻っ柱を先輩の右ストレートが打ち抜いて、私は驚くほどあっさりとリングに尻餅をついた。
顔だけじゃなく、頭全体が焼け付くように熱い。全身が重くだるい。
「ツー…スリー…」
男子部員のレフェリーがカウントを進めている。
座り込んだまま先輩を見上げると、彼女は妙に不安げで、私を気遣う様な目をしていた。
私は何だか焦ってしまって、
「だ、大丈夫。大丈夫…」
と呟きながら、すっくと立ち上がった。
足はまだ踏ん張れるし、ガードも上がる。
「まだやれるか?」
レフェリーの問いかけにハイッと短く応えると、スパーはすぐに再開された。
ホッとしたのだろう、先輩は一瞬表情を緩ませる。が、すぐに顔つきを引き締めると、フットワークを使いながら私の周囲を旋回し始めた。
(うわ…)
私はすっかり舞い上がってしまって、まるで先輩に引き付けられるように追い駆けてジャブを繰り出し続けた。
でも、やはり私のパンチは当たらない。上体を振り、首を捻る僅かな動作であっさりとかわされてしまう。
攻撃に夢中になっていると、思い出したようにパンチが返ってくる。一瞬で目の前に赤いグローブが出現し、衝撃だけを残して消えていく。
多分だけど、これは口下手な先輩なりの戒めなんだと思う。下手な攻め方をしてはいないか。ガードが疎かになっていないか。あんまり酷いと、さっきダウンさせられたような重いパンチが飛んでくる。その後決まって、彼女は申し訳なさそうな表情をするのだ。思わず子供に声を荒げてしまった母親のように
「残り一分!」
先輩のセコンドから声が飛んだ途端、アウトボクシングに徹していた先輩が、一気に懐まで飛び込んでくる。
ドムッ
腹部への重い衝撃に開きそうになる口を、マウスピースごとギュッと噛み締める。ついでに気合を入れなおす。
手を出せば当たる距離にいる。それは大きな励みになる。
もう一度ボディを打とうと前屈みになっている先輩のアゴを、下から思い切り突き上げた。
ゴツッという久しぶりの手応え。遅れて、パラパラ飛んできた飛沫が顔にかかった。
もう一発、浮いたアゴをフックで抉ろうと左腕を振り回すも、目標は腕の内側まで急接近してきた。殆どタックルのようなクリンチで、私はロープ際まで押し込まれた。
先輩がこうまで必死になるのはクロスレンジの時だけだ。その打たれ弱さを克服する為、がむしゃらになって「子供」の私に挑んでくる。
レフェリーに間を分けられ、お互いに向き直った時にもう一度彼女の表情を窺う。うっすら涙を浮かべて、口をギュッと結んで。本当に、意地っ張りな子供みたいだ。
「ボックス!」
再開の合図と共に、ガードを抜かれて右の頬を殴られた。子供になってもやっぱり先輩のパンチは強烈で、いきなり腰が砕けそうになった。
けども、この時間だけは倒れる訳にはいかなかった。
思いっきり踏ん張って、先輩の為にパンチを返す。私のパンチ一発でもグラつく先輩は、スタイルも捨てて殴りかかって来る。
ガチャガチャやり合って、頭の芯までカッカして、体が熱でとろけそうになる。
何発目かも分からないけど、私の打ち下ろした右の拳が先輩をまともに捉えた。
「うぅ…」
彼女は小さく呻くと、ヨロヨロ後退してロープに腕を絡ませもたれ掛かった。
私は固まった足を無理に引き摺り、先輩へと攻め寄る。
「カーン」
最後のゴングが鳴った。
まるで魔法が解けたように体が動かなくなり、足がもつれた。
「あっ」
そのまま躓いて、ロープに身を預ける先輩にしがみ付いてしまった。
「キャッ」
先輩は慌てながらも、しっかりと私を受け止めてくれた。その格好のまま、二人揃ってキャンバスに座り込む。
真っ赤に熱した頭が徐々に冷えていく。ゆっくりと先輩から身を離し、礼を述べた。
そしたら、先輩が先輩の言葉で言うのだ。
「またお願いね、美園ちゃん」
こんな先輩のとスパーが、私は大好きだ。