1

 綺麗に晴れた夜空。秋の月明かりが松林に影を投げかけている。

 影の道を綾子は進む。道案内は飼い犬のコリー犬、サルバが務めてくれている。力強くリードを引っ張り、先へ先へと綾子を急かした。

 やがて視界が開けた。

 目の前には一面の海。その上にぽっかり浮かんだ月の光が、砂浜を淡く照らし出していた。

 綾子は大きめのトートバッグからレジャーシートを取り出し、二つ折りにして砂浜に敷いた。

 シートの上に座り込むと、バッグから今度は日本酒の一升瓶と湯飲み、サルバ用の食器を取り出した。

「今日はいい日和ね、サルバ」

 まずはサルバの食器に、そして自分の湯飲みに酒を注ぐ。

 腕時計をチラリと覗く、午前0時を回ったところだった。

「じゃあサルバ、乾杯」

 湯飲みを月に掲げ、静かに口をつけた。

 一息に一杯目を飲み終え、大きく息をつく。サルバはマイペースにペロペロやっている。

 綾子はそのまま海に目をやり、体をめぐるアルコールの「震え」を楽しんでいた。微かな高揚感を覚え、体が火照ってくる。

 そしていつものように、「それ」は私の右隣に現れた。

 最初はざらつきながら、やがてラジオのチューニングをあわせるように「それ」からノイズが消えていく。

 綾子が二杯目を飲み終えた時には、そこに薄く、ぼんやりとした女性が座り込んでいた。

 彼女は綾子を見止めると、右手の湯飲みを掲げてニコリと笑った。綾子もそれに応える。

「こんばんわ。誰かさん」

 

  2

 不謹慎な話だが、綾子は中学一年生の正月から酒を飲み始めた。

 親族揃っての新年会で、叔父から日本酒を飲まされた事がきっかけだった。こんなことはよくある話で、面白がって子供に酒を勧める大人など、どこにでもいる。

 問題はその一杯で、綾子がアルコールというものに心底惚れ込んだ事にある。

 小さなお猪口から少量の酒を含んだだけで、刺激が口の中に溢れ出さんばかりだった。慌てて飲み込むと、程よく冷えた液体が喉を滑り落ち、続けて焼けるような熱さが胃から腸へ伝達していく。それは不思議な心地だった。

 綾子はゆっくりと二口目を含む。口の中がかあっと熱い。飲み干すと、胃を中心にして、全身が火照り出した。

「ふう・・・」

 空になった猪口をテーブルにそっと戻し、綾子は小さく息を吐いた。

 その時、今までに感じたことのない全身の鼓動を、綾子は聞いていた。彼女が覚えた初めての酩酊感である。

 それからの綾子にとって、酒は特別だった。特別だからこそ、未成年の身で周りにせがんだりはしなかった。辛抱強く祝い事を待ち、自分のグラスに酒が注がれるのを辛抱強く待った。

 夏にはビールを。秋にはワインを。冬にはシャンパンを。それでも一等好きだったのは、彼女に初めて酒の味を教えてくれた日本酒だった。

 

  3

「日本酒ってのは、酒と一緒に風情を楽しむもんだ」

 綾子の父が酒を飲むときの決まり文句だ。

 お椀に並々と注いだ酒をうっとりと眺め、口をつけるとくいっと飲み干す。綾子はその仕草が好きだった。

 父はよく夜の縁側で、庭を眺めながら飲んだ。週末に趣味で庭いじりをしている父の自慢の風景。だが綾子に強い印象を残したのは、庭を朧に照らす明かり。月だった。

 

 大学に合格し、親元を離れ、綾子は二十歳になった。

 どれほどこの瞬間を待ちわびたことか。五月の深夜、アパート近くの海岸にサルバと共に座り込み、三日月を肴に静かに酒をあおった。

 うまかった。綾子は身を震わせて思わずサルバに抱きついた。

「サルバも飲んでみる? ちゃんと準備してきたんだからね、器」

 バッグから食器を取り出すととぷとぷと酒を注ぐ。

 その時、綾子の目の端に引っかかるものがあった。すぐ近くに女性が座り込んでいる。さっきまでは誰もいなかったはずなのに。

 綾子はその人影に違和感を覚えた。月明かりによる陰影が全く無いのだ。むしろ自身がうっすらと発光しているようにすら見える。綾子はさらに目を見張る。

「・・・っ!!」

 絶句した。女性の向こうの流木が、彼女を通して透けて見えた。

 

  4

(足は・・・あるわよねえ)

 いくら非現実的な人物が目の前にいるからといって、最初に見るところが足だとは。綾子は苦笑したつもりだったが、その顔は多少ひきつっていた。

 とりあえず「透明な彼女」を観察してみる。体育座りで海を眺めながら、片手に持ったワイングラスをスローペースで傾けている。地面にまで届きそうなストレートの髪が、着ている服を覆い隠していた。どうやら薄手のパーカーを羽織っているようだ。

 そして・・・視線を顔に移した時、二人の目が合った。

 綾子の胸が高鳴った。綺麗な顔がやんわりと微笑むのを見て思う。この人は生きている、意志を持った目だ。

「こんばんわ〜」

 間延びした挨拶が彼女の口から発せられたことに、綾子は何故か戸惑いを覚えた。

「こ、こんばんわ・・・」

 少し遅れて挨拶する私の横を、サルバが彼女に向かって歩いていく。なつっこく擦り寄ろうとしたが、サルバの鼻先が彼女の体をすり抜けた。クンクン鳴きながら何度も接触を試みるが、それも徒労に終わった。

 彼女は楽しそうにサルバを目で追うと、綾子に向き直った。

「あなたはワンちゃんとお酒を飲むのね。楽しそう」

 そういって彼女はころころと笑った。綾子はそれに、ひきつった笑顔で応じるしかなかった。

 

  5

「私は園咲塔子、一応普通の人間よ」

(いや普通って・・・)

 思わず出かけたツッコミを飲み込みつつ、綾子は思わず姿勢を正して名前を告げた。

「遠野綾子さん・・・ね。私みたいな人を見るのは初めて?」

(私みたいなって・・・それってやっぱり普通じゃないってことじゃないかしら)

 訝しんでも仕方が無い。綾子は無言で頷いた。

「そうよね〜。最初の私を見るみたいですもの」

 塔子はクスクス笑い、近くに座り込んだサルバの頭を撫でる仕草をした。

「どこから話そうかしら・・・そうね、あなたが今いる所はどこなの?」

「どこって由比ヶ浜、でしょう?」

「へえ、近いのね。だから感度がいいのかしら」

 綾子にはさっぱり話の流れが掴めなかった。のんびりしているのは口調だけではないらしい。

「私はね、林木座海岸にいるの。滑川を挟んだあたりかしら」

「・・・はい?」

 綾子は思わず眉間に皺を寄せた。

「ああ、怒らないで怒らないで。解りやすく言うから」

 塔子は自分の頭に、左手の人差し指を当てた。

「チャンネルが合っちゃったのよ私達。ラジオみたいに、ね。」

 

   6

 恐らく害はないだろう。綾子はゆっくり塔子に近づくと、傍らにすわりこんでサルバをキュッと抱きよせた。

「チャンネル・・・テレビではなくて、ラジオ?」

「そうね。私はそう言った方がしっくりくるの」

 塔子はワイングラスを燻らせた。

「屋内じゃ駄目、どうにも感度がよくないわ。外でゆっくりお酒を飲んで、自分の中のアンテナをチューニングするの」

 綾子は思わず塔子の体に手を伸ばした。だが予め予想していたように、その手は塔子の「像」を素通りしただけだった。

「・・・私達個人が、独自に周波数を持っているってこと?」

「あら、もう受け入れちゃうの? つまんないわあ」

 塔子は残念そうに綾子を見やった。

「その疑問についてはイエスよ。体調とかで簡単にコロコロ変わるあやふやな周波数」

「お酒に酔うことでアンテナを広げるってことかしら・・・それだけじゃないか。お互いの虚像を同時に視認できるってことは・・・」

 一人でブツブツ呟きだした綾子に、塔子はあきれてグラスをあおった。

「ふう。初めてのタイプだわこれは・・・」

 

  7

 塔子は眉を顰め、ボトルを逆さにして何度も振った。数滴のワインを最後に空になったボトルを塔子は残念そうに眺めると、僅かばかりグラスに溜まったワインをくっと飲み干した。

「さて…酒の切れ目が縁の切れ目よ。今夜はここまでね」

 塔子は改めて綾子に向き直った。

「あなたはこの現象をまともに捉えようとしているみたいだけど、あんまり気にしないで。夢みたいなものなんだから」

「…いまさらそんな事言うんですか」

 綾子は苦笑し、残った酒を飲み干した。

「今から一月後、この近辺の美大で学園祭があるんです。よかったらそこに顔を出してはもらえませんか?」

「あら、実際に会いたくなった? そうね。いいわよ」

「軽く言うんですね。会ってはいけないタブーでもあるのかと思ってました」

 まじめくさった綾子の顔に、塔子はころころと笑った。

「一枚の絵画を出展して、その前で待っています」

「どんな絵なのか、教えてくれなきゃわからないわよ」

「いえ、見ればわかると思いますから」

「ふうん…じゃ、楽しみにしてるわ」

 塔子はすっくと立つと、目の前の海へと歩き出した。

「またね。綾子さん」

 左手に持ったボトルをゆっくり掲げながら、塔子はゆっくりと海の上を歩いていき、やがて消えた。

 しばらくの間、サルバは波打ち際でくんくん鼻を鳴らしていた。

 

  9

 丁寧にブラッシングされた長い黒髪の女性が、一枚の絵を穏やかな表情で見つめていた。両手をロングスカートの後ろに組み、時々リズムをとるように体を揺らす。

 綾子には一目でそれと知れた。

「こんにちは。塔子さん」

 振り返った塔子はにこやかに微笑んだ。

 お疲れ様。それだけを言い、彼女は再び絵に向き直った。

「いい絵だと思うわ。あなたらしくて、私たちの象徴」

 青い夜空にぽっかりと浮かぶ銀色の月。滴り落ちるその滴を受け止めるのは、青白く透き通った両手が掲げる金の器。

「…ちょっとあざと過ぎましたかね」

「いいんじゃない? どうせ酒飲み以外にはわからないわよ」

「いや…他の人からもコンタクトが来るんじゃないかと気が気でなくて」

 塔子は思わず吹き出していた。

「あははは。いいじゃない、チャンネル仲間。来たら私にも教えてね」

「チャンネル仲間…ふふっ」

 呆れ半分の笑いを返しながら、綾子は塔子の手を引いた。

「さ、出し物でも回りましょうか。ビールだって置いてますよ」

「あらー、いいわね。おつまみのセレクトは任せるから」

(しかし…酔っ払いの集団か)

 塔子の手を引きながら、綾子は上を向いてもう一度笑った。

 

  終

 

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