河野百合は崖っぷちだった。

 少し幼いが整った顔立ちに、長めに結ったポニーテール。そのビジュアルの良さから、彼女はアイドルとしてボクシングを続けてきた。本人が望んだ訳ではなかったが、ジムとしては選手の名が売れるのは悪い事ではない。

 さらに言うと、彼女は弱かった。5戦して未だ勝ち星を上げられず、それが却って周囲の注目を集めていたのだ。

 実力以外で生まれた人気。それは、ただボクシングが好きで続けてきた百合には耐えがたいものだった。

(次負けたら私は・・・)

 百合の心は崖っぷちで揺らいでいた。

 

 資料を見る前から、百合は彼女の名前を知っていた。

 山橋すみれ。百合とほぼ同期の彼女は戦歴も似通っており、メディアに出る時も大抵は二人セットで扱われた。もちろんアイドル扱いでだ。

 今リング中央で百合と顔を突き合わせている彼女は、雑誌やテレビで見るよりも可愛らしかった。精一杯睨みつけているのだろうが、その大きな瞳は愛くるしく、左右で結ばれた短めの黒髪も可憐だ。自分なんかよりも余程アイドルらしいと、百合は思う。

 しかし、ここはリングの上なのだ。事実上の最下位決定戦、何としても勝たなければならないと百合は気合を入れ直し、すみれを睨み返した。

 コーナーへと戻り、セコンドにマウスピースを入れてもらい、さらに集中力を高める。やがて・・・

 カーン!

 鳴らされたゴングと共に、リング上の二人は相手へと向かってゆっくりと歩を進めていく。そしてリング中央で突きだした右グローブをタッチ。そこから左ジャブでの探り合いが始まった。

 対策と呼べるほどのものではないが、予習はしてきている。すみれは根っからのスロースターターで、緊張でもしているのか、序盤はかなり動きが鈍い。

 まずはジャブを当てて、そこから速攻を・・・百合がそう考えている矢先だった。左ジャブを掻い潜りながらすみれが突進してきたのだ。

(嘘っ!)

 面喰った百合の顔に勢いのついた右ストレートが突き刺さる。

「ふぶっ!」

 思わぬ展開に後退しながら百合は、自分の見通しの甘さを呪った。その間もすみれは容赦なく、退いた分だけ間合いを詰めてくる。

(クソッ)

 少しでもすみれを遠ざけようと、右フックで横っ面を殴りつける。しかし手応えは・・・弱い。下がりながらのパンチではすみれの勢いを止めることはできず、逆にお返しとばかりのボディーブローをもらってしまった。

「くっ・・・」

 ガードを固めながら、百合は相手の顔を覗き見た。これ以上後手に回るのを避けるため、僅かでも情報を集める必要がある。

 ガードの隙間から垣間見えたすみれの顔には、意外にも焦りの色が見てとれた。試合の序盤である筈なのに、まるで最後のチャンスであるかのような必死の顔つき。

 いつもの百合ならばここで気遅れしてしまったかも知れない。元からメンタルの強い選手ではないのだ。しかしこの試合、彼女は引退を賭けて臨んでいる。負けたくないと切に願った。

 意識せずに、百合の拳が飛んでいた。

「かふっ」

 突き進んでくるすみれのアゴを跳ね上げ、前進を止めた。

 今度はこちらの番だ。百合は相手を見据えて足を蹴り出そうと力を込める。が、動かなかった。顔を戻したすみれと目が合った瞬間に、体が固まったのだ。

 百合にはなんとなく解ってしまった。アイドルという雑音。それを甘受するしかない己の弱さ。何より、この試合に賭けた弱者の意地。

(この子は私だ)

 かすかな胸の痛みと共に、試合中とは思えない穏やかさが百合の心に満ちた。

 動きを止めて百合の瞳を見返すすみれ。心なしか彼女の顔も和らいだように百合には思えた。

 ほぼ同時に二人の右手がスッと伸びる。二回目のグローブタッチを皮切りに、二人の足がリングを蹴った。

 

 殴って殴り返され、倒れないように抱きついて。

 百合はここまで必死になって戦った事があっただろうか。今、殴り合いを続けているすみれこそが、彼女にとっての励みとなっている。

 最終ラウンド開始時、腫れ上がったすみれの顔を見て百合はぎこちなく笑った。

 これがアイドルだって?

 片目は塞がりかけているし、ほっぺもパンパンで真っ赤ではないか。スポブラだって血で汚れている。自分だって似たような格好のはずだろう。

(でも、これでいいんだよね。きっとあなたも)

 そして百合はパンチを構えた。

(山橋さん。これからもがんばろうね)

 

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